読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ShowTaro

世界40カ国廻った鬱病旅人の哲学ブログ

ニュートンは万有引力を発見するために木から落ちるリンゴを見た

f:id:tarome731:20170214023155j:plain

とあるスポーツ選手が伸び悩んでいた。その原因を周囲には

「メンタルが弱いから」と指摘され続けていた。

 

そこで、その彼はチームの大黒柱に相談した。

「どうやったらメンタルが鍛えられるか」という課題について。すると、大黒柱の彼はこう答えたのだ。

「メンタルなんてみんな弱いに決まっている。お前は自分の伸び悩みをメンタルを理由にされて本当は嬉しかったんだろ。」

 

この話は、成功しない理由を並べて未来への可能性を潰さない情けない人間の話です。

 

プロになる程の実力から自分のパフォーマンスが否定されることが彼の全てが否定されているようで彼は自分のパフォーマンス自体に欠陥があるということを信じきれなかったのだろう。それを「メンタルが弱い」という理由に甘えて成功への可能性を閉ざしていたのだと思う。結局、このアドバイスから自分を見つめ直した彼はチームのエースに成長した。

 

このような人をみたことはよくあるのではないだろうか?女性に告白しない理由を「まだタイミングじゃない」とか「自分はブサイクだから」とかいろいろ理由つけて避ける人。おそらく、私もそのようなことをする時がある。

 

たしかにブサイクでタイミングじゃないこともあるかもしれないけど、「振られたら付き合える可能性が全てなくなってしまう。だけど、万が一成功したらバラ色の人生が待っている。」という幻想から架空の生きる希望を心の拠り所に日々を過ごしているのだ。決して成功しないまま。

 

私、自然科学的に物事全てに理由を求める人間だったのだが、ここ最近それってすごくナンセンスなんじゃないかって思うのだ。例えば、対人関係において、なんでその人が好きになったとか嫌いになったとかの話の場合が良い例だ。

 

優しくしてくれたからとかかっこいいからとか趣味があるからとかいろいろ理由はあるだろう。しかし、それ満たしてる人って他にもたくさんいるはずだ。なんでその特定の人になるのって話である。要するに、その人じゃなきゃいけないという事実はあってもその理由なんてないと言っても過言じゃない。

 

嫌いになる理由も然り。こういう喋り方が嫌だとか、こういう仕草が嫌だとか。今に始まったことじゃないのにも関わらず、急にそれが嫌になる。それは嫌いになったという事実が先行し、その選択を裏付けるように対象の行動に不快という感情を捏造しているのではないだろうかと。そういうことってよくあることではないだろうか?

 

理由なんて自分含め他者を納得させる道具に過ぎないのだ。

 

画像提供:けんたま/KENTAMA