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ShowTaro

世界40カ国廻った鬱病旅人の哲学ブログ

ボスニアンコンフリクト

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人を殺してしまった

 

「嗚呼、なんということをしてしまったのか。逃げ出したい。」

 

この時点でこの少年は別の人間である

 

殺したのは過去の彼であり、彼ではない。

 

「俺の引いた2回のトリガーで1600万人の戦死者と2000万人の負傷者を生むだけに止まらず、さらには彼らの身内への大きな心の傷を与えてしまった。俺はそんなつもりはなかったのだ。人々を守るつもりだったのだ。」

 

彼は他人の罪を背負わなければならない。 

自殺は許されなかった。

青酸カリを飲んでも死ねず、銃口は取り押さえられた。

 

そのトリガーは彼の母の心をも殺してしまった。

 

以前の彼も正義だった。守らなければならない人々と思想があった。

 

目的は果たしたはずなのに、それは間違えた手段に過ぎなかったのか、100年後に英雄と称えられようと、彼は絶望と罪の深淵に堕ちていた。

過程の評価

 

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目標設定

 

簡単そうで難しい

 

カント信者の言う「国連の意義」というのは納得しているが目標達成はしていない。

でも、その存在に必要性はあると思う。

 

結果を追い求め続ける存在に対する評価は非常に困難。

活動する側が、目標達成していない状況に「価値」を捏造して、勝手に達成したと言う解釈に甘んじる状況こそは悪だと私は解釈する。

 

・理想像を具体的に形づけられているか

・その解決プロセスに論理性があるか

・その活動者に”強い”意思があるか

 

この3つを評価基準に置くとする

 

イスラエルパレスチナ問題は両者とも正義たる意義を持って活動していると解釈すると、理想像というものの作成は少なくとも今の私には不可能である。

 

だからといって、その問題を野放しにすることは許されるのだろうか。

努力って言葉は残酷

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結果を出している人って「才能がある」「体格に恵まれている」「環境に恵まれている」などの言葉で片付けられることが多い。

 

しかし、彼らは「才能はない。血の滲むような努力をした」「体を大きくする努力をした」「自分の意思次第」といった反論をする。

真っ当だとも思う。

 

結果が出ていない人々は、「才能がなかった」「体は生まれつき」「環境は変えられない」というだろう。

真っ当だとも思う。

 

両者とも正しい。いや、間違っている。でも、正しい。

 

結果が出てない人は、「結果は出なかった」という事実から目を伏せ、「良い経験だった」と言ったり、そもそもの目標設定を忘れさせ、自身の経験を肯定する。

こうでもしないと生きていけない。失敗しない人は人生に失敗するもの。でも、甘んじ続けてはいけない。

 

「勝者が正義」とは残酷だが事実。努力という言葉に価値はあるのだろうか。

 

努力という言葉は解釈。

 

人々は、各言葉に各々違った定義づけをしている。

それが個人の個を外の世界に表現するものになるのだろう。

傀儡の青春

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—今日もツイッターでつぶやく。

・・・

“ツイートが完了しました。”

 

—あ、コメントだ。「いいね」もついた。

「やばいwww 可哀想過ぎるwww」

「ウケるwwww」

「お前って変わっているよな」

 

—明日は何をしてやろう。どうやったらまたいっぱい反応してもらえるだろう。

 

 

ツイッターでつぶやいた彼はマイク。大学3年生だ。

彼はしばしば派手なことを行う。それとまた、彼には不幸なことがよく降りかかる。その度にツイッターを利用している。

その度に反応してくれる人がいることが何より快感なのである。

 

マイクは比較的社交的で大学に友達が多い。彼を取り巻くイベントは華やかである。しかし、彼は「ひとりぼっち」であるということを果敢にアピールするし、暗い大学生活を送っていると認識している。

 

周囲の目からしてみて、マイクを孤独と思う人間はいない。華やかな大学生活を送っているようにしか見えない。

 

マイクの心は満たされていない。いや、満たしていないのだ。彼は恐れている。自らが普通すぎるということを受け入れることを。

いや、これは人間的。非常に人間的。彼は恐れている。この「変人」「不幸」という自らのキャラクターを捨てた場合、周囲の注目や周囲の己への認識が変わってしまうことを。

 

彼は見下している。その大学で知名度のないサークルに所属している人間にはアイデンティティのない見えない何かに動かされる傀儡の集団くらいにしか思っていない。

 

彼は見下している。SNSでフォロワーが少ない人間は周囲の注目を浴びていない、自分よりヒエラルキーの低いものとしてしか思っていない。

 

彼は見下している。”変わった行動”を取らない人間は自らの意思のない傀儡くらいにしか思っていない。

 

 

しかし、マイクは傀儡。マイクは最も傀儡。彼は周囲の承認をただただ求めるばかりに、所属感を得るためにサークルの名前を振りかざし、SNSのフォロワーに踊らされ、”変わった”行動をとることで承認欲求という餌を追い続ける傀儡。

 

彼は認めない。なぜなら、彼の青春は傀儡として踊らされた時間に努力を費やしすぎた。その過去が否定されること、それは彼の所属感の否定であり、幸福の否定、彼の存在意義の否定だった。

 

 

彼は気づこうとしない。「ただただ認めて欲しい」と思うばかりの普通すぎる欲求の究極に成り下がっている自らの愚かな姿を。

 

彼は周囲に認めてもらうためだけに、自ら不幸を選択し、奇抜な行動をとっては周囲に見せつける。

 

彼には勇気がない。それは「普通である」ということを受け入れる勇気がない。

彼のいう傀儡こそ、彼が胸を張って語る理想像だった。

 

マイク、傀儡は操りの影から逃れられなかった

 

画像提供:陈文

タイトルのない大学生

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バネッサの口癖は「成長しなきゃ」。

彼女はいわゆる意識高い大学生だ。

誰だか社会人の方などの講演会が開かれるたびに彼女は感銘を受け、「日々成長!」と呟く。

 

「なぜ成長しなきゃいけないの?」

「成長の定義って何?」

「どう成長したいの?」

 

いつも自分の胸の中にはバネッサに対してこの質問が並ぶ。

 

バネッサは何を目指しているのか聞いたところ、「まだやりたいことが何かわからない」だそうだ。

やりたいことがわかる大学生ってのも、別にマジョリティではないだろうし、私自身も「自分がしたいこと」ってなんなのだろうと問われると答えられない。

 

でも、彼女は漠然と「成長」というものに大いなる義務を感じているらしく、インターンシップやボランティア活動、起業家講座などに通っているらしい。

 

彼女の行動力にはいつも脱帽する限りであるが、周囲からの彼女に対するヘイトはよく聞く。「どの活動も中途半端で迷惑」といった意見だ。どのレベルで彼女が中途半端で迷惑をかけているのかは知らないけれど、モチベーションを大いにかけられなかった組織側にも問題があるのではと思いながら、いつもその意見には同意した反応を見せる私。

 

彼女が何の会社で何を求めてインターンシップに行っているのかは知らない。けれど、彼女はいつもSNSで「今からインターン」という投稿を行う。インターンをしている自分というのに承認を求めている様に見える。

 

ボランティア活動に関しても、何を達成したいのかきいたことはないし、「現地の人たちから、色々学ぶことができたし、楽しかった」とはいうものの「何を学んだの?」「結局何をしに行って、何ができたの?」という内容は皆無である。

 

起業家講座だって、「何がしたい」というものがないのに何を起業するつもりで、何を目的に通っているのだろうかといつも疑問に感じている。

 

バネッサに限らず、この手の大学生って星の数ほどいる。

どういう風に違和感があるかと一言でまとめると

「手段を目的にしている」

という点であるのだろうか。

 

成長って何か目指すものがあるから、その手段としてするものではないだろうか。例えば、動物は生命を保存するために自立する、そのために肉体を成長させる。この例は微妙だった。例えば、RPGゲームでボスに勝てないからレベル上げをする(成長させる)。これは紛れもなく、目的に対する手段である。

 

インターンシップ、ボランティア活動、起業家講座自体は「手段」に過ぎない。

 

とりあえず手を出してみること自体は悪いことではないと思う。そうでなければ、ネタが尽きた時に新しい刺激が得られないから。

経験は一概に順序立てて行なった通りだけに作用するものでもない。数年前のあの活動って無駄だったなと思っていても、数年後に「あの時の経験がいきた」ということは少なくない。

 

だけれども、常に「私はこういう目標をたてて、それを達成するためにこの手段を利用している」と言える状況で手段を用いなければ、マスターベーションと何も変わらないだろう。

 

 

 

画像提供:yamauchi

既得権益と思想

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大学四年生が終わろうとしている今までに何カ国廻ってきたのかって数えてみたら約40カ国。国の定義って正直解釈次第だからこんな数字にさほど意味はない。バチカンコソボってそもそも国として認めている国の方が少ない気もする。パレスチナイスラエルなんてどっからそう呼べばいいのやらと頭を抱える。場合によっては人権問題にもなる。気をつけなければ。

 

小さい頃から水上難民の村やマングローブジャングルに連れて行ってもらい15歳でなぜか父親に「一人で韓国に行ってきなさい」という謎イベントがあったからか、未開の地に一人で行くことにさほど抵抗もない。ルーマニアチャウシェスクの落とし子やフィリピンの孤児院の子供達も、刺激的ではあったものの「かわいそう」なんて微塵も思わないし、彼らなりに楽しそうな姿を見ると「既得権益ってなんなのだろうか」と考え込んでしまう。

 

彼らから「ジャポン!ジャポン!」とか言われたり、「マネーマネー」とか言われたり、「ジャッキーチェン!」ってからかわれて、「いや日本人だし…」と誰に伝えるでもない声でツッコミを入れる。「個人としての存在」を実感できたことに意味を持つ点で交互に承認欲求を満たし合えていると思う。

 

こうやって旅して廻っていると、いろんな人に出会うもの。移動中や宿での出会いはなかなか刺激的で「予想できない効用」なのだが、旅に出る前にはいつもその「予想できない効用」に対して期待をする。なんだかんだ再び彼らに会うことは少ないものの、心の中では彼らはずっと私の心の中に爽やかな顔で生き続けて美化されている。

 

私個人として「アジア人」「旅人」程度の所属感はあるかもしれないが、それだけを持って孤独に初対面の人々に出会う。ここってかなり人間力が試される。

 

日本にいれば共通言語や話題があり、それなりに確保された「既得権益」によって自己の所属を確保することができるが、独り身でポンっと投げ出ればなかなかそうはいかず、いかに私自身の所属を感じようかと模索する。

 

ニューヨークでスイス人に「どうして日本人は原爆を2回も落とされたのにアメリカが好きなの?」と言われた経験があり、GHQ草案を元に日本国憲法が作られたから日本人の精神性は過去とは違うのだという自分の意見を下手くそな英語で表現したとき何かが開花した気がしたのだ。

そのあと、ドイツ人にナチスについての意見を聞いて自分の意見を交わすというコミュニケーションを試したり、そんなことを繰り返していくようになった。

すると、自分がどう言う考えの人という所属感を構築することができた気がした。

 

要するに個人レベルの考えというものを交わし合うという形で濃密な所属感を創造することも可能である。

 

己のアイデンティティって既得権益というより思想にあるのではないかなと思う限りである。

 

 画像提供:Yupeng Wu

命より人生の方が大切に決まっている

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永劫回帰という言葉を聞いたことがあるだろう。

 

その一生が全く同じものとして、まるで同じフィルムの映画を見続けるように繰り返されるというものである。唯一の違いは、そのフィルムが痛むことなく、霞むことなく繰り返されることだ。

 

さて、なぜ永劫回帰という言葉が当然のように存在するのか。「人間が死ぬとどうなるか」という問いに対して、「人々は生まれ変わる」とか「死んだら完全に無になる」とか所説はさまざまである。ただここで私は先に宣言する。「人生は永劫回帰する」ということを。

 

宇宙の始まりについて考えたことのない人は少ないのではないだろうか。物理学を好んで学んできた私にとってはこのコンテンツについては幼いころに幼いながらによく考えたものだ。

 

宇宙の存在がない時代、宇宙の始まりの時代を仮定するのなら、それは、物質はおろか空間もエネルギーも皆無の状況だろう。フォトンもグラビトンもない。この場合、時が流れるのかさえ不明だが。

 

我々には一つ大きな証拠がある。「我々の存在」という物質と時の流れの事実である。宇宙の始まりの定義を前提条件とするならば、宇宙の始まりと現在の我々 が持つ証拠を照らし合わせれば、皆無という状況から現在までの流れの存在を断定することができる。前置きが長くなったが、この話は「時間は無限、物理学的 エネルギー(21世紀なので敢えて物質としなかった)は有限」という仮定に基づくことを主張している。

 

「神が創造した」「ビッグバンが起きた」など説はこれについても様々。「無の状況から何があってビッグバンが起きるのだ」っていうツッコミに対して誰も反論できないのだからビッグバン説なん てオカルトと何ら変わらない。なぜ彼らは神の創造説が馬鹿にできるのか甚だ不思議である。

 

無の状況から、いかにしてまだ否定されていない 「エネルギー保存則」の中から「物理学的エネルギーの発生が起きたのか」という私の説は、プラスのエネルギーの宇宙とマイナスのエネルギーの宇宙の二つの 宇宙の発生である。もしそれがお互い収縮すればエネルギー保存則に従えるわけである。なぜ分かれたかについて答えられないことはビッグバンとかいう説が 堂々としている社会なので許してほしい。

 

さて、ここで私はあなたたちに問いたい。「同じ条件で同じ試行がなされたらどうなるのか」ということだ。この場合、何も違いがない。空気抵抗も気温も実験者も被験者も全くすべてのコンディションが同じである。

 

この質問に対しての答えは一つだろう。「全く同じことが起きる」だ。

 

宇宙がなかった皆無の時代から、エネルギーが二つの世界に分断し宇宙が創造され、宇宙が広がり、宇宙が収縮し、皆無の時代に戻る。

 

全く同じ条件から、同じ試行がなされ、全く同じ条件に戻る。起こりうる結果は全く同じだろう。

 

人間の脳なんて、突き詰めてみれば分子や原子などの動きに他ならない。意思や欲望なんて、計算がほぼ不可能なくらい困難なだけで物理学的に動きの証明は可能なはずである。

 

あの日、飲み屋で出会ったかわいいあの子。次回の人生でも全く同じ時間で同じ場所で同じ気持ちであの子に会うのだ。そして、一語一句同じ言葉で会話を交わす。

 

結局何が言いたいかというと、あなたの人生は繰り返される。それは何も変化を起こさずに繰り返される。生まれた瞬間死ぬ人間も、預言者ゾロアスターも、ガヴリロ・プリンツィプも、あなたの人生も同様に繰り返される。

画像提供:Kingsley Huang