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ShowTaro

ソース:https://medium.com/@showtaro

傀儡の青春

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—今日もツイッターでつぶやく。

・・・

“ツイートが完了しました。”

 

—あ、コメントだ。「いいね」もついた。

「やばいwww 可哀想過ぎるwww」

「ウケるwwww」

「お前って変わっているよな」

 

—明日は何をしてやろう。どうやったらまたいっぱい反応してもらえるだろう。

 

 

ツイッターでつぶやいた彼はマイク。大学3年生だ。

彼はしばしば派手なことを行う。それとまた、彼には不幸なことがよく降りかかる。その度にツイッターを利用している。

その度に反応してくれる人がいることが何より快感なのである。

 

マイクは比較的社交的で大学に友達が多い。彼を取り巻くイベントは華やかである。しかし、彼は「ひとりぼっち」であるということを果敢にアピールするし、暗い大学生活を送っていると認識している。

 

周囲の目からしてみて、マイクを孤独と思う人間はいない。華やかな大学生活を送っているようにしか見えない。

 

マイクの心は満たされていない。いや、満たしていないのだ。彼は恐れている。自らが普通すぎるということを受け入れることを。

いや、これは人間的。非常に人間的。彼は恐れている。この「変人」「不幸」という自らのキャラクターを捨てた場合、周囲の注目や周囲の己への認識が変わってしまうことを。

 

彼は見下している。その大学で知名度のないサークルに所属している人間にはアイデンティティのない見えない何かに動かされる傀儡の集団くらいにしか思っていない。

 

彼は見下している。SNSでフォロワーが少ない人間は周囲の注目を浴びていない、自分よりヒエラルキーの低いものとしてしか思っていない。

 

彼は見下している。”変わった行動”を取らない人間は自らの意思のない傀儡くらいにしか思っていない。

 

 

しかし、マイクは傀儡。マイクは最も傀儡。彼は周囲の承認をただただ求めるばかりに、所属感を得るためにサークルの名前を振りかざし、SNSのフォロワーに踊らされ、”変わった”行動をとることで承認欲求という餌を追い続ける傀儡。

 

彼は認めない。なぜなら、彼の青春は傀儡として踊らされた時間に努力を費やしすぎた。その過去が否定されること、それは彼の所属感の否定であり、幸福の否定、彼の存在意義の否定だった。

 

 

彼は気づこうとしない。「ただただ認めて欲しい」と思うばかりの普通すぎる欲求の究極に成り下がっている自らの愚かな姿を。

 

彼は周囲に認めてもらうためだけに、自ら不幸を選択し、奇抜な行動をとっては周囲に見せつける。

 

彼には勇気がない。それは「普通である」ということを受け入れる勇気がない。

彼のいう傀儡こそ、彼が胸を張って語る理想像だった。

 

マイク、傀儡は操りの影から逃れられなかった

 

画像提供:陈文

タイトルのない大学生

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バネッサの口癖は「成長しなきゃ」。

彼女はいわゆる意識高い大学生だ。

誰だか社会人の方などの講演会が開かれるたびに彼女は感銘を受け、「日々成長!」と呟く。

 

「なぜ成長しなきゃいけないの?」

「成長の定義って何?」

「どう成長したいの?」

 

いつも自分の胸の中にはバネッサに対してこの質問が並ぶ。

 

バネッサは何を目指しているのか聞いたところ、「まだやりたいことが何かわからない」だそうだ。

やりたいことがわかる大学生ってのも、別にマジョリティではないだろうし、私自身も「自分がしたいこと」ってなんなのだろうと問われると答えられない。

 

でも、彼女は漠然と「成長」というものに大いなる義務を感じているらしく、インターンシップやボランティア活動、起業家講座などに通っているらしい。

 

彼女の行動力にはいつも脱帽する限りであるが、周囲からの彼女に対するヘイトはよく聞く。「どの活動も中途半端で迷惑」といった意見だ。どのレベルで彼女が中途半端で迷惑をかけているのかは知らないけれど、モチベーションを大いにかけられなかった組織側にも問題があるのではと思いながら、いつもその意見には同意した反応を見せる私。

 

彼女が何の会社で何を求めてインターンシップに行っているのかは知らない。けれど、彼女はいつもSNSで「今からインターン」という投稿を行う。インターンをしている自分というのに承認を求めている様に見える。

 

ボランティア活動に関しても、何を達成したいのかきいたことはないし、「現地の人たちから、色々学ぶことができたし、楽しかった」とはいうものの「何を学んだの?」「結局何をしに行って、何ができたの?」という内容は皆無である。

 

起業家講座だって、「何がしたい」というものがないのに何を起業するつもりで、何を目的に通っているのだろうかといつも疑問に感じている。

 

バネッサに限らず、この手の大学生って星の数ほどいる。

どういう風に違和感があるかと一言でまとめると

「手段を目的にしている」

という点であるのだろうか。

 

成長って何か目指すものがあるから、その手段としてするものではないだろうか。例えば、動物は生命を保存するために自立する、そのために肉体を成長させる。この例は微妙だった。例えば、RPGゲームでボスに勝てないからレベル上げをする(成長させる)。これは紛れもなく、目的に対する手段である。

 

インターンシップ、ボランティア活動、起業家講座自体は「手段」に過ぎない。

 

とりあえず手を出してみること自体は悪いことではないと思う。そうでなければ、ネタが尽きた時に新しい刺激が得られないから。

経験は一概に順序立てて行なった通りだけに作用するものでもない。数年前のあの活動って無駄だったなと思っていても、数年後に「あの時の経験がいきた」ということは少なくない。

 

だけれども、常に「私はこういう目標をたてて、それを達成するためにこの手段を利用している」と言える状況で手段を用いなければ、マスターベーションと何も変わらないだろう。

 

 

 

画像提供:yamauchi

既得権益と思想

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大学四年生が終わろうとしている今までに何カ国廻ってきたのかって数えてみたら、29カ国らしくそろそろ38カ国になるのだと。国の定義って正直解釈次第だからこんな数字にさほど意味はない。バチカンコソボってそもそも国として認めている国の方が少ない気もする。パレスチナイスラエルなんてどっからそう呼べばいいのやらと頭を抱える。

 

小さい頃から水上難民の村やマングローブジャングルに連れて行ってもらい15歳でなぜか父親に「一人で韓国に行ってきなさい」という謎イベントがあったからか、未開の地に一人で行くことにさほど抵抗もない。ルーマニアチャウシェスクの落とし子やフィリピンの孤児院の子供達も、刺激的ではあったものの「かわいそう」なんて微塵も思わないし、彼らなりに楽しそうな姿を見ると「既得権益ってなんなのだろうか」と考え込んでしまう。

 

彼らから「ジャポン!ジャポン!」とか言われたり、「マネーマネー」とか言われたり、「ジャッキーチェン!」ってからかわれて、「いや日本人だし…」と誰に伝えるでもない声でツッコミを入れる。「個人としての存在」を実感できたことに意味を持つ点で交互に承認欲求を満たし合えていると思う。

 

こうやって旅して廻っていると、いろんな人に出会うもの。移動中や宿での出会いはなかなか刺激的で「予想できない効用」なのだが、旅に出る前にはいつもその「予想できない効用」に対して期待をする。なんだかんだ再び彼らに会うことは少ないものの、心の中では彼らはずっと私の心の中に爽やかな顔で生き続けて美化されている。

 

ジャーナリズムやボランティア関連のサークルや学生団体って何がしたいのだろうと興味がありながらも活動内容を聞くといつもがっかりしながらニコニコして話を聞いてしまう癖がある。悪い癖だと思いながらもそれなりにこの行動にメリットを感じているのかなかなかやめられない。正直ここに関しては自分自身が理解できない。そもそも、彼らの目的がよくわからず、何も達成できずに帰ってくる姿を見るとなんかやりきれない気持ちがあるし、なんか大学の広報材料に使われているような、変な組織に使われているようななんとも言えない気持ち。あくまで、「あの団体の人たち!」という保護された環境と背景をもって渡航すれば、簡単な異文化体験をすることができるとは思うのでオススメしないこともない。

 

いやはや、私が言いたいのはそんなことじゃなくて、私個人として「アジア人」「旅人」程度の所属感はあるかもしれないがそれを持って初対面の人々に出会う。ここってかなり人間力が試される。

 

日本にいれば共通言語や話題があり、それなりに確保された「既得権益」によって自己の所属を確保することができるが、独り身でポンっと投げ出ればなかなかそうはいかず、いかに私自身の所属を感じようかと模索する。

 

ニューヨークでスイス人に「どうして日本人は原爆を2回も落とされたのにアメリカが好きなの?」と言われた経験があり、GHQ草案を元に日本国憲法が作られたから日本人の精神性は過去とは違うのだという自分の意見を下手くそな英語で表現したとき何かが開花した気がしたのだ。

そのあと、ドイツ人にナチスについての意見を聞いて自分の意見を交わすというコミュニケーションを試したり、そんなことを繰り返していくようになった。

すると、自分がどう言う考えの人という所属感を構築することができた気がした。

 

要するに個人レベルの考えというものを交わし合うという形で濃密な所属感を創造することも可能である。

 

己のアイデンティティって既得権益というより思想にあるのではないかなと思う限りである。

 

 画像提供:Yupeng Wu

命より人生の方が大切に決まっている

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永劫回帰という言葉を聞いたことがあるだろう。

 

その一生が全く同じものとして、まるで同じフィルムの映画を見続けるように繰り返されるというものである。唯一の違いは、そのフィルムが痛むことなく、霞むことなく繰り返されることだ。

 

さて、なぜ永劫回帰という言葉が当然のように存在するのか。「人間が死ぬとどうなるか」という問いに対して、「人々は生まれ変わる」とか「死んだら完全に無になる」とか所説はさまざまである。ただここで私は先に宣言する。「人生は永劫回帰する」ということを。

 

宇宙の始まりについて考えたことのない人は少ないのではないだろうか。物理学を好んで学んできた私にとってはこのコンテンツについては幼いころに幼いながらによく考えたものだ。

 

宇宙の存在がない時代、宇宙の始まりの時代を仮定するのなら、それは、物質はおろか空間もエネルギーも皆無の状況だろう。フォトンもグラビトンもない。この場合、時が流れるのかさえ不明だが。

 

我々には一つ大きな証拠がある。「我々の存在」という物質と時の流れの事実である。宇宙の始まりの定義を前提条件とするならば、宇宙の始まりと現在の我々 が持つ証拠を照らし合わせれば、皆無という状況から現在までの流れの存在を断定することができる。前置きが長くなったが、この話は「時間は無限、物理学的 エネルギー(21世紀なので敢えて物質としなかった)は有限」という仮定に基づくことを主張している。

 

「神が創造した」「ビッグバンが起きた」など説はこれについても様々。「無の状況から何があってビッグバンが起きるのだ」っていうツッコミに対して誰も反論できないのだからビッグバン説なん てオカルトと何ら変わらない。なぜ彼らは神の創造説が馬鹿にできるのか甚だ不思議である。

 

無の状況から、いかにしてまだ否定されていない 「エネルギー保存則」の中から「物理学的エネルギーの発生が起きたのか」という私の説は、プラスのエネルギーの宇宙とマイナスのエネルギーの宇宙の二つの 宇宙の発生である。もしそれがお互い収縮すればエネルギー保存則に従えるわけである。なぜ分かれたかについて答えられないことはビッグバンとかいう説が 堂々としている社会なので許してほしい。

 

さて、ここで私はあなたたちに問いたい。「同じ条件で同じ試行がなされたらどうなるのか」ということだ。この場合、何も違いがない。空気抵抗も気温も実験者も被験者も全くすべてのコンディションが同じである。

 

この質問に対しての答えは一つだろう。「全く同じことが起きる」だ。

 

宇宙がなかった皆無の時代から、エネルギーが二つの世界に分断し宇宙が創造され、宇宙が広がり、宇宙が収縮し、皆無の時代に戻る。

 

全く同じ条件から、同じ試行がなされ、全く同じ条件に戻る。起こりうる結果は全く同じだろう。

 

人間の脳なんて、突き詰めてみれば分子や原子などの動きに他ならない。意思や欲望なんて、計算がほぼ不可能なくらい困難なだけで物理学的に動きの証明は可能なはずである。

 

あの日、飲み屋で出会ったかわいいあの子。次回の人生でも全く同じ時間で同じ場所で同じ気持ちであの子に会うのだ。そして、一語一句同じ言葉で会話を交わす。

 

結局何が言いたいかというと、あなたの人生は繰り返される。それは何も変化を起こさずに繰り返される。生まれた瞬間死ぬ人間も、預言者ゾロアスターも、ガヴリロ・プリンツィプも、あなたの人生も同様に繰り返される。

画像提供:Kingsley Huang

孤独な青年の欠いたもの

 

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興味がない

アレキサンダーは他人の話を遮る。それが彼にとって正義であるからだ。

 

なぜかって?無駄な時間だからさ。バカの話を聞いているほど彼の人生は暇じゃない。

アレキサンダーの口癖は「俺は周囲に恵まれている」だ。

 

彼は彼の身近な人間を愛している。彼は彼の大学のサークルの仲間は変わり者で優秀、高校の仲間も大学ほどではないがいっぺん変わった人たちが多くて興味深いと思っている。感情に素直になれる仲」であり、「本音で言って分かり合える仲間と評価している。

 

中学時代のアレキサンダーは暗かった。それは、中学のクラスメートがあまりにもバカでくだらなかったからであると彼は言う。

 

アレキサンダーは孤独だった。中学時代の彼に取り柄はなかった。だから彼は信じていた。彼自身の行動を信じるしかなかった。「勉強して見返してやる。」

 

アレキサンダーは地元じゃ名の知れた高校の生徒だった。入学した途端、彼は「ここの奴らなら俺をわかってくれるはず」と胸を高鳴らせた。そして彼は周囲に歩み寄った。周囲は彼を受け入れ、彼は自分の存在の果実の甘美に酔った。

 

勉強している奴は違うな

これがアレキサンダーの結論だった。

「勉強していない奴なんて面白くもないクソ野郎共だ。」

 

アレキサンダーはまた勉強した。血のにじむほどの努力を経た。一流と謳われる大学に入学するために。そしてその目的を果たした。

 

アレキサンダーにとって自らが通う大学に大きな誇りがある。学生証を取り出す瞬間、SNSにプロフィールを書くとき、大学の名前がわかる形でのSNSへのポストに快感があった。

 

「周囲は俺に注目している。俺は変わり者で、俺の仲間も変わり者。そして、優秀である。」

アレキサンダーはそれを信じていた。

 

しかし、アレキサンダーは次第に感づいてはいた。「自分は外に出ればまだ孤独」。

 

しかし、それは認め難い事実。「俺は変わり者で魅力的。優秀である。誰にも価値を感じられるべき存在。俺の価値がわからないのは妬み、もしくは聞き手の知識不足。」と納得させた。

 

アレキサンダーは自らの誇りある価値観の否定要素を認めたくなかった。青春時代の受験勉強の努力は絶対で誰もが評価しなければならない絶対的価値観であることと、そこで勝利した彼は絶対に周囲に承認されるべきであると信じていた。「自分の周囲の奴らは俺のことをわかってくれる。彼らには素直になれるし本音で分かり合えている」。

 

ああ愚か!愚かすぎる。愚かでならない。

 

20歳のアレキサンダーは彼の地元に帰ったとき恐れた。20歳になるとその国では同窓会が行われることが習わしである。彼は過去の孤独を大学の仲間には隠していた。しかし、それを隠すためには20歳の同窓会に出席するという事実が欲しかった。しかし、孤独が怖い

 

孤独への痛みから彼らに「こいつらの話を聞くことは、こいつらを尊重してしまうことは、こいつらと分かり合えてしまうことは、俺の誇りを、あの努力を否定してしまうことに他ならないのではないか。」という葛藤に悩んだ。

 

歩み寄れない!

 

問題は取り柄だったのだろうか。

その歩み寄り、その尊敬・尊重の念こそが手段として至高だった。

 

彼も彼の親しい仲間も普通だった。変わっているという事実を認めるために周囲に認めさせるために踊らされた日々を恥じた。彼らが分かり合えたと感じることができたのは、ただ歩み寄りあったというシンプルなことだけだった。そして、どの立場からなのか友人に評価を下したのだ。

 

彼は改めた。勇気を持った。

興味を持とう

哀れな隼

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隼は世の中にうんざりしていた。

 

なぜ人々は群れをなし、同じ所属の人々を特に異質だと信じ、なにを満足しているというのか。

何を競い、その勝利に何の意味を見出し、なにを満足しているというのか。

目的を持たず、手段に捉われ、なにを満足しているというのか。

 

愚かである。実に愚かな毒の蠅どもである。意思を持たず、欲に溺れる毒の蠅どもよ。

こぞって互いに価値観を洗脳し、共通認識のみを目的とし、その行動に意味を持たない腐敗にまとわる毒の蠅である。

 

私は隼。群れも成さなければ、競いもしない。幸福という目的のためにだけ生きる、まっすぐな猛禽類である。私は私のやりたいことだけを行う。そこで、幸福を見出すのだ。私の行動こそが至高なのだ。

 

しかし、私は満たされていない。私はなにをやりたいのか。幸福を見つけられない。私は、これをやりたかったのではないのか。なぜここに幸福がないのか。

 

なんということだ。彼ら毒の蠅どもは満たされているように見えるではないか。しかし、私はそれを認めない。彼らは私より不幸に違いない。見ろ。どう考えても低俗ではないか。彼らがやっていることを真似てみたところで私は幸福ではない。彼らは幸福ではないに違いない。

 

毒の蠅どもよ。その群がりのつながりの弱さといったら湿った和紙のようなものではないか。なんて不安定なのだ。仮にそのつながりに幸福を見出しているとしよう。彼らは不安で幸せなど感じられないに違いない。しかし、彼らは私の目標を達成しているのではないか。不安定こそ幸福とでもいうのか。

 

私は不幸である。それはもう美しいほどに不幸である。私に残されたものを手にとって眺めて見ろ。それは、ガラクタである。そのガラクタは棘を持つ。触れると私をさらに深い不幸に淵に落とすのだ。私は間違いなく隼だった。その方向が幸福ではなく、不幸のいう淵に真っ向化する、まさしく素早く美しい隼だった。嗚呼、その速さは毒の蠅では追いつけまい。私にその毒を盛ってはくれないか。しかし、それは叶わない。

 

嗚呼、私は堕ちてしまった。翼などなかった。意思の翼はそもそもなかった。私は、欲だけを持つ。永遠に満たされない欲である。叶わぬ目標に何の意味があるというのか。私は何故生まれてきたというのか。神は残酷である。その存在は叶わぬものであり、憎悪と後悔、不幸を背負う。私がメシアなのだろうか。そう違いない。世間に愛されることのない、人々の罪を背負うメシアなのだ。

 

隼は深淵に消えて行った

 

画像提供:matsumura

ニュートンは万有引力を発見するために木から落ちるリンゴを見た

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とあるスポーツ選手が伸び悩んでいた。その原因を周囲には

「メンタルが弱いから」と指摘され続けていた。

 

そこで、その彼はチームの大黒柱に相談した。

「どうやったらメンタルが鍛えられるか」という課題について。すると、大黒柱の彼はこう答えたのだ。

「メンタルなんてみんな弱いに決まっている。お前は自分の伸び悩みをメンタルを理由にされて本当は嬉しかったんだろ。」

 

この話は、成功しない理由を並べて未来への可能性を潰さない情けない人間の話です。

 

プロになる程の実力から自分のパフォーマンスが否定されることが彼の全てが否定されているようで彼は自分のパフォーマンス自体に欠陥があるということを信じきれなかったのだろう。それを「メンタルが弱い」という理由に甘えて成功への可能性を閉ざしていたのだと思う。結局、このアドバイスから自分を見つめ直した彼はチームのエースに成長した。

 

このような人をみたことはよくあるのではないだろうか?女性に告白しない理由を「まだタイミングじゃない」とか「自分はブサイクだから」とかいろいろ理由つけて避ける人。おそらく、私もそのようなことをする時がある。

 

たしかにブサイクでタイミングじゃないこともあるかもしれないけど、「振られたら付き合える可能性が全てなくなってしまう。だけど、万が一成功したらバラ色の人生が待っている。」という幻想から架空の生きる希望を心の拠り所に日々を過ごしているのだ。決して成功しないまま。

 

私、自然科学的に物事全てに理由を求める人間だったのだが、ここ最近それってすごくナンセンスなんじゃないかって思うのだ。例えば、対人関係において、なんでその人が好きになったとか嫌いになったとかの話の場合が良い例だ。

 

優しくしてくれたからとかかっこいいからとか趣味があるからとかいろいろ理由はあるだろう。しかし、それ満たしてる人って他にもたくさんいるはずだ。なんでその特定の人になるのって話である。要するに、その人じゃなきゃいけないという事実はあってもその理由なんてないと言っても過言じゃない。

 

嫌いになる理由も然り。こういう喋り方が嫌だとか、こういう仕草が嫌だとか。今に始まったことじゃないのにも関わらず、急にそれが嫌になる。それは嫌いになったという事実が先行し、その選択を裏付けるように対象の行動に不快という感情を捏造しているのではないだろうかと。そういうことってよくあることではないだろうか?

 

理由なんて自分含め他者を納得させる道具に過ぎないのだ。

 

画像提供:けんたま/KENTAMA